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 昨日書いたNHK大河ドラマ『どうする家康』配役発表の記事は、僕の拙い文章では分かりにくかったと反省。加筆します。

 主な反省点は、誰でも服部半蔵を知っているとの思い込みです。服部半蔵の正式の名は、服部半蔵正成。半蔵は通名です。徳川家康 の16神将のひとりに数えられる重臣です。

 ただ、一般的には忍者の印象が強く、ニンジャと言えば 服部半蔵、 服部半蔵 と言えばニンジャの頭領…というのが一般的な見方ですよね。漫画「忍者ハットリくん」のモデルとしても知られます。東京の地下鉄路線「半蔵門線」にもその名が冠せられるほどの有名人です。

 ただ、半蔵は忍者ではなく、忍者を含む警護役を使って将軍の身辺警護を行う、いわば現在の皇宮警察本部長にあたるとの指摘など諸説あります。Wikipedia「服部正成」をのぞいてみましたが、諸説・情報の寄せ集めの感ありでそれらを鵜呑みにしない方が良いでしょう。

 要約すると、京都にいた父親の保長(初代服部半蔵)が家康公の祖父清康に誘われて岡崎に来た忍者で、その息子である半蔵正成はこどもの頃大樹寺に〝小僧〟として預けられていましたが、仏道に進むのを嫌い脱走。それからの6,7年は消息不明です。

 再び半蔵正成の名が文書で確認されるのは、三河蒲郡(愛知県蒲郡市)の上ノ郷城攻めです。この城攻めに若き家康公は忍者を使ったのですが、その忍者集団を指揮したという説もあります。

 『どうする家康』のディレクターがその辺りに異常なほどの関心を示していましたから、ドラマでは目玉のひとつにされることはまず間違いないでしょう。徳川幕府の編修した大名や旗本の家譜(一種の家系図)集である寛政重修諸家譜には、「16歳のときに、三河宇土城(うどのじょう又は上ノ郷城)を夜襲し戦功を立て家康公から持槍を拝領した」とあります。この寛政重修諸家譜は「盛って書かれていることも多い。そんな若造がいきなり大活躍など怪しい」と言う史家もいますが、そんなことを言いだしたらキリが無いので僕は〝事実〟として話を進めます。

 家康公の生命の危機のひとつと言われる「伊賀越え」でも半蔵の役割や功績は史家の間で二分されます。しかし、現地にも足を運んで調べてきましたが、半蔵によって家康公が危機を乗り越えた可能性は十分にありますし、そう伝わってきた話です。それを今になって〝重箱の隅をつつくような資料調べをして〟覆すのは如何なものかと思います。

 関東の方であれば皇居に半蔵門があるのはご存じのはずですが、それはその昔、皇居が江戸城であったころ、そこが搦手(からめて)門にあたり、非常時に将軍を城から脱出させるための門でした。正式名称が半蔵門だったわけではありません。その辺りが将軍警護の総責任者である半蔵のテリトリーだったことからその門を人は半蔵門と呼び、その縁で東京の地下鉄路線 #半蔵門線 にもその名が付けられたというわけです。

 でもその一方で、半蔵が岡崎生まれであることや #徳川家康 公の嫡男信康の自害の介錯役であったにもかかわらず泣き崩れて首がはねられなかったことはあまり知られていません。岡崎の人でもそれを知る人は少数派です。生まれた場所にその碑すら建てられていないのは寂しい限りです。

 そんなこんなを思って配役発表の記事を書いた次第です。長々と失礼しました。

 

 そう言えば昨日、岡崎市の観光協会の会長になられた「まるや八丁味噌」の浅井社長(ひげ仲間ですが親戚ではありません)がカフェに顔を出したのでこの話をして「岡崎に忍者屋敷でも作ったらどうですか?」と冗談交じりに話を振ってみるとメモを取っていました。ひょっとしたら実現したりして…(笑)