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佐世保から東京へ戻った後も、私は「多動性」の性格そのもの。興味を持てば、どこにでも姿を現していました。

その後も、全共闘を中心とした反戦運動や大学改革を求める運動、そして三里塚での成田国際空港建設反対闘争が吹き荒れ、世の中は大きく揺れていました。全国の多くの大学が学生によって占拠され、授業さえ行えない状態になっていました。

その象徴が、1969年冬、東大の安田講堂をめぐって繰り広げられた全共闘と機動隊の攻防戦です。同じ年、東大では入学試験そのものが中止されました。

私は新聞社やテレビ局の記者でもなければ、学生運動の活動家でもありません。ただ、その「現場」に自分の足で立ち、自分の目で見たかったのです。

そうするうちに、子どもの頃から抱いていた、「ジャーナリストになりたい」という思いは、ますます強くなっていきました。

ところがその一方で、私生活では難問が次々と降りかかってきました。

一時期は、「なんでこんなにオレに試練が」と、やけくそになりそうになることもありました。そして、そんなことで余裕を失っている自分自身に苛立つことも少なくありませんでした。

いったん東京を離れよう。一度、自分の生活を整理して、「ジャーナリストになるための仕切り直し」をしなければならない。

そう考え私たは東京を離れることにしました。

行き先に選んだのは、静岡でした。静岡を選んだのには理由があります。私が憧れていた戦場カメラマン、岡村昭彦が、時折、静岡に姿を現すと知ったからです。

1968年、寸又峡温泉で金嬉老がライフルとダイナマイトで武装して温泉宿に立てこもり、全国の耳目を集めた、いわゆる「寸又峡事件」。

その裁判で、岡村が特別弁護人を務めていると知ったのです。

ならば、静岡に移住だ。

単純といえば、実に単純です。

静岡に移り住んだ私は、建設現場や水産会社などで働いて生活費を稼ぎ、その合間を縫って裁判所へ足を運びました。

もちろん、裁判そのものにも関心がありました。金嬉老は、戦前の日本によるアジアへの侵略を鋭く糾弾し、在日朝鮮人への差別を独特の視点から取り上げて弁論していました。しかし、私の目的はただひとつ。

「岡村昭彦に会うこと」です。

そして、とうとうその時がやってきました。

法廷に、金嬉老の特別弁護人として岡村昭彦が現れたのです。

その姿を見た時の胸の高鳴りは、今でもハッキリと覚えています。

「ああ、本物の岡村昭彦だ」

憧れ続けてきた戦場カメラマンが、いま自分の目の前にいるのです。

法廷での岡村の存在は圧巻でした。少なくとも当時の私には、被告の訴えに十分耳を貸すことなく、粛々と「罪」を裁こうとしているように見えた裁判官や検事を向こうに回し、独特の歴史観や文明・文化論まで持ち出して弁舌を振るう岡村は、光り輝いて見えました。

公判が終わると、裁判所の庭で岡村は大勢の人たちに囲まれました。

新聞記者はもちろんのこと、彼の著作を読んで憧れていた人たち――いわば「岡村ファン」です。

私は少し離れたところで、自分の番が来るのを待ちました。

一人減り、二人減り……。

ようやく私の番になりました。

岡村昭彦の前に立った「くにおみ青年」。

心臓が激しく鳴っていました。あまりに大きな心音なので、岡村本人にまで聞こえてしまうのではないかと思ったほどです。

私は岡村に簡単に自己紹介をしました。そして、自分がジャーナリストを目指していること、岡村に憧れてここまで来たことを伝えようとしました。

ところが――。

私が言葉を継ぐ前に岡村昭彦から返ってきたのは、たったひと言でした。

「ぼくは弟子は取らないよ」……。

すべてが終わったような気がしました。

私は二の句を継げず、それ以上、何も言えませんでした。

憧れ続け、高校時代には家出までして上京し、日本にいるはずもない岡村を追い求めました。そして、それから数年後。東京を離れて静岡までやって来て、働きながら裁判所へ通い、ようやく目の前にすることができた人。

その人から返ってきた言葉が、「ぼくは弟子は取らないよ」でした。

そういわれて、私は岡村の前から、すごすごと引き下がりました。

ところが。

私と岡村昭彦の関係は、これで終わりませんでした。むしろ、ここから始まったのです。